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本庄繁長の生涯~村上が生んだ猛将~

新潟日報より<下>
救世主 徳川と交渉し上杉家守る

本庄繁長が攻め入った山形・庄内地方。群雄が割拠しながらも武藤義氏の支配下にあったが、1583年に討たれると政局は混乱、山形を拠点とする最上義光と上杉景勝が影響力を強めていった。
上杉景勝が進出を企てたのはなぜか。村上市の郷土史家、大場さんは「庄内の石高は当時約13万石もあった。何としても手に入れたいと考えたのだろう」と推測する。
庄内制覇に動く最上義光に脅威を感じた武藤氏は景勝との関係を強化。これに刺激され義光が同地方を制圧すると、本庄繁長は1588年に侵攻を始めた。
村上市史などによると、最上勢の約1万人に対し、本庄勢は5千数百人。兵力の差は明らかだったが、繁長は手薄なところを狙って北上し、両軍は山形・鶴岡市で激突する。「十五里が原の戦い」だった。巧みな陽動作戦や挟み撃ちで繁長は勝利し、庄内は上杉領となった。名峰鳥海山を北に望む鶴岡市友江には、合戦の慰霊碑が立っている。近くに住む斎藤さんは「地元のものにとって、どっちが勝った負けたということは気にならないと」話す。地元では地域の人や犠牲者の子孫が今でも6月に集まり、死者を供養し続けている。
ここで予期せぬ事態が起こる。政権を握っていた豊臣秀吉は庄内侵攻の前年、大名間の私戦禁止令を発していた。最上義光は上杉勢がこれに違反したと訴えだのだった。繁長は責任を問われ、村上を離れて景勝の京都留守居役になった。
そこに相次いで客が訪ねてくる。豊臣秀次、徳川家康、前田利家の家臣だった。武勇に秀でているとの評判を聞き付け、引き抜きに来たのだった。豊臣、徳川、前田といえば超一流。ところが繁長は誘いを拒否する。
「自分は上杉家の一門という自負があったのだろうが、どうにも損をしたような気がしてならない」。こう話す大場さんは、繁長を「愚直之将」と称し、生きざまを小説に薯している。
1598年上杉景勝は会津に移封され、赦免された繁長もこれに従った。その数ヵ月後に秀吉が死去。上杉は徳川家康と一線を画しながら、関ヶ原の合戦を迎える。石田三成方に付いた上杉勢は東北地方で東軍方と激突。直江兼続は山形城の最上勢を攻めたが、西軍敗北の報が伝わると総崩れになった。
一方、本庄軍は福島で兵力に勝る伊達政宗の南下を阻止していた。繁長は狭い通りが入り組む福島城下に伊達勢を誘い込むと、あらかじめ短くしておいたやりで攻撃。政宗の本陣に迫り、幔幕や小荷駄まで奪い取る勝利を挙げたと伝えられている。
武略家としての面目躍如。繁長の家臣の子孫、飯沼さんは「この時の本庄軍の戦法は、旧日本陸軍の教本にも紹介されたほど優れたものだった」と胸を張る。
家康に背き、命運尽きかけた上杉家。駿府での徳川との和談に景勝が送り出したのは繁長だった。交渉相手は後に老中として幕政の中枢を担う本田正信。厳しかったであろう交渉の末、繁長はお家存続を勝ち取る、景勝と直江兼続が京都。伏見城で家康に面会、わびるのは翌年のことだ。
「伊達との戦いに勝った繁長だったからこそ、相手から一目置かれ交渉がうまく進んだのだろう。上杉家」にとって本庄繁長はまさに救世主」。大場さんはこう評価する。
繁長は1613年、福島城で74年の生涯を閉じた。数々の武功をたたえ、景勝は「武人八幡」の神号を贈ったという。

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2011年01月22日 10:03に投稿されたエントリーのページです。

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