以前にも私たちの地元にある豪農の館「渡邊邸」と上杉家の関わりについてを書かせて頂きました。
豪農の館「渡邉邸」と「上杉家」の関わり~歴史~
その中でも特に上杉鷹山との繋がりが強いものと分かり、今回は上杉鷹山についてを書かせて頂きます。
『上杉鷹山の改革』
越後(新潟)の領地から、福島、山形と領地を移動、減らされていた「上杉家」。
財政の危機で赤字と借金を抱えていた。
今から200年前の享保の時代。
九州の大名家から17歳で上杉鷹山が上杉家へ養子としてやってきた。
17歳のときに鷹山が「改革」の実行を地元の氏神に誓った直筆の書が白子神社に残されています。
その内容は・・・
「年々国家が衰え 人々が苦しみに喘いでいます
大倹約を行い 藩を中興したく祈願いたします
怠るようなことがあればたちまち 神罰を受けてもかまいません」
若干17歳にして並々ならぬ決意と、どのような姿勢で藩政を行っているかを物語る書であります。
倹約の一つとして
武士へ木綿の衣服を着るようにと、一汁一菜ということを行わさせました。
また、うるし100万本プロジェクトでうるしの木を100万本植えそこからロウを抽出して売るという産業ですがこれは失敗に終わりました。
それと重なり、
浅間山の噴火による天明の大飢饉、
先代藩主重定の御殿の焼失により、
さらに出費と困難にみまわれ、鷹山は35歳で隠居を余儀なく去れました。
その際に、次の藩主でなるであろう先代重定の実子に宛てた、直筆の書が上杉神社に保管されています。
「伝国之辞」これは藩主の心得を記したものです。
「国家とは先祖から子孫へ伝える国家で私すべきものではない
国家と人民のために君主を立てるのであって君主のために国家や人民があるのではない」
君主の身勝手な行動や贅沢を戒めるものでした。
41歳で再び鷹山は再び立ち上がり改革を行います。
47か条のプランを打ち出し、
その一つが、
上書箱の設置をしてたくさんの人からの意見を聞いて、
そこからの意見である
桑の苗木を無料配布し、養蚕をし、絹織物の生産をするというものでした。
これが米沢織や透きや織となりました。
領地が少なくなっていっても、一人もリストラをせずに改革を行ったことでも有名です。
度々、家臣に言っていた言葉が・・・
「成せば成る 成さねば成らぬ何事も
成さぬは人の成さぬなりけり」
上杉鷹山は72歳で死去しました。
その翌年には借金のほとんどが返し終わりました。
実に33年の年月でした。
地場産品の付加価値を活かし、お金が動いていると言う点に着目し、
江戸時代(米経済)の武士の経済の考えを変えたのです。
一人のリストラをすることなく、
『単なる倹約ではなく攻めの経営』だったのです。
この現代社会の状況に参考になる、また改めて気づかなくてはいけない点がこの上杉鷹山から学べると思います。
参考資料:NHK「その時歴史が動いた」
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