2009年 大河ドラマ「天地人」に決定!!
~新潟県南魚沼市は上杉景勝・直江兼続の生誕地です~
越後の地で育まれた二人の武将の魅力をご紹介します。
秀吉が惚れ、家康が恐れた。
戦国期に愛と義を貫いた武将。
-上杉景勝・直江兼続-
~その後の生き方~
信長の死後、秀吉は上杉景勝に提携を申し入れた。
戦乱に明けくれた民の苦しみを救い、平和国家建設が急務との両者の大義一致によって同意し、以後景勝は天下の政治に参画貢献、ゆるぎない地位を確立した。
秀吉晩年の朝鮮出兵は、いたずらに異国の地を踏み荒らす大義なき侵略で、大名たちの厖大な犠牲は民の疲弊となり、政権不信が高まり徳川家康ら反政権グループが台頭、重大な局面をむかえた。
政局不穏のなか、秀吉は百二十万石の大禄(歴代3位)を景勝に与え、会津への国替えを命じた。景勝はこのうち三十万石を兼続に与え、一段と混迷する難局に立ち向かった。また、道路、橋、築城など百二十万石に相応しい国造りを兼続に命じ、会津全土に希望の槌音が響く。しかし、このことが周辺大名の脅威となり、上杉軍備、上杉謀反の訴となって家康に告げられた。
機あらば上杉討伐をともくろむ家康は、兼続に厳しく糾弾してきた。返書は兼続が正々堂々、箇条で家康の陰謀をあばき正義を貫く上杉の気骨をしめし「いつなりとうけて立つ」と、家康の心胆を寒からしめた世にいう「直江状」を送り、来攻を待った。景勝兼続主従が歴史の舞台に颯爽と踊り出た一瞬である。
上杉討伐の大軍が小山に着いたとき、西で石田三成が家康打倒の兵を挙げた。決戦に満を持す上杉軍を前に家康は突如反転して西に向かった。
上杉軍は、再び来攻するであろう家康に備え、会津背後の最上義光を攻め、またたく間に席捲、しかし、関ヶ原で三成軍が敗れ、兼続もまた最上から兵を引いた。
上杉軍は、家康と鉾を交わすことなく敗者の側に立った。敗者となった上杉家は存亡の危機、最大の難局に立たされた。
名門上杉家存続をかけた兼続渾身の外交戦略によってからくも上杉家は米沢三十万石への減封で命脈を保った。
予想をこえる難局を一人背負った兼続の国造りの戦いが始まった。
いかなる事態をも想定し、一人の武士も解雇せず、自らの俸給を武士たちに分け与え、上下一体の思想を創りあげ、そのうえで、農業生産に欠かせぬ農民指導、新たな産業の振興、治山治水など兼続の総合的能力がよどみなく発揮された。
時代を担う青少年の学問奨励にも力を注いだ。兼続は少年時代から学問に強い関心をもち、在京時代、中国、朝鮮からも貴重な文献を収集、一流の高僧たちとの交流を深めて講義を聞き修養を高めた一流の文化人であった。
晩年兼続は、収集資料すべてを投じ、東北における初の学校「禅林文庫」の創設を急ぐが、開校の前年、元和5年(1619年)60歳で生涯を終えた。
主家上杉家盛衰の全責を負い、死をもって直江家絶家を遺言している。
~福島・新潟・山形「天地人」酒紀行~
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